普通とか,当たり前とか,世の中はデフォルトに縛られている・・・のではないだろうか。
例えば,食卓でお米の入ったお椀はは左側に置くだとか,名刺は必ず両手で受け取るだとか,上司に話しかけられたら席を立つだとか,日本社会はそれを一般常識として認識し,日本人の頭頂部から足先にまで浸透している。染み付いていない人間がいるのであれば,それは非常識,常識知らずと揶揄される。
果たしてその常識はいったい誰が作ったのだろうか?
もしかしたら,お米を右側に置いていたかもしれないし,名刺の受け取り方なんて誰も気にしない世界線も存在しているかもしれない。
円卓のナプキンは左右に置かれている。どちらか片方を取ればいいのだが,皆が同じ方を取らなければ全員に行き渡らない。では誰が右と左を取るのを決めるのか。初めにナプキンを取った人間だ。始まりの人間を基準に,皆ナプキンを取っていく。要するに,常識は一番最初に決めた人がいるから常識になっているだけであって,常識を守らなかったら死ぬわけではない。(ジョジョ7部参照)

では何故,人はこれほどまでに当たり前を受け入れているのだろうか。それは単純明快,常識に従っている方が生きやすいからだ。
食事の場合,右利きの人間が8割以上を占めているこの世界,箸を右手で扱うなら左手でよく持つであろうお米のお椀は左手で持つのだから,自然と左側にお椀を置いていた方が食事をしやすいだろう。名刺を両手で受け取ることで丁寧な接し方だと認められ,その後の取引もより円滑に進める助力になるだろう。
常識を皆がもつからこそ,赤の他人同士が共存しても大きな問題を起こさずに生きていくことができるのだ。
その常識は幼い頃からの学びからしか得られない。多くの時間を共にする肉親から学びそのものを教えてくれる学校の教師,気の置けない友人,YouTubeで気まぐれに開いた動画からも知ることがあるだろう。
それらを自分でどう認識し,当たり前にしていくのか。個人によって微々たる差はあれど行き着く解釈は一緒だろう。ナイフは持っているだけでは意味がない。意味を持たせるのはそれを使う自分自身だ。