【本紹介】『忘れられた巨人』ーカズオイシグロ 【考察】

エッセイ

 今回は,カズオイシグロさんの『忘れられた巨人』をご紹介します。巨人とは一体何なのか?忘れられたとはどういうことなのか。考察を交えてお伝えいたします。


① 基本情報

 『忘れられた巨人』(原題:The Buried Giant)は,2015年にカズオ・イシグロが発表した長編小説です。イシグロといえば,『日の名残り』や『わたしを離さないで』などで知られ,2017年にはノーベル文学賞を受賞した作家です。その代表作の多くが「記憶」と「時間」をテーマにしており,本作もその系譜に位置づけられます。

比企
比企

『わたしを離さないで』を読んだ時は,独特な世界観のイシグロワールドに引き込まれました!そんな期待をもって今回の本も読みました。


 舞台はアーサー王没後の6世紀ごろのブリテン島。サクソン人とブリトン人の間に戦争の余韻が残りながらも,奇妙な“忘却の霧”によって人々の記憶が曖昧にされている時代です。ファンタジーの形式を借りながらも,戦争・赦し・記憶といった普遍的テーマを深く描いた作品です。 


② あらすじ

 物語は老夫婦アクセルとベアトリスから始まります。二人は小さな村で暮らしていましたが,村人から疎まれ,息子の姿も思い出せないまま日々を送っていました。記憶の霧が人々を覆い,過去をたどろうとしても途切れ途切れにしか思い出せないのです。

 ある日,二人は「息子に会いに行こう」と決心します。しかし,息子がどこにいるのか,どうして別れてしまったのかさえ思い出せません。それでも二人は旅に出ます。

 旅の道中,彼らはさまざまな人物と出会います。サクソン人の若き戦士ウィスタン,少年エドウィン,そして伝説の円卓の騎士である老いたガウェイン卿です。道のりの途中で「忘却の霧」が実は竜クエリグの吐息によるものであることが明らかになります。この霧があることで,ブリトン人とサクソン人は互いの憎しみを忘れ,表面上の平和を保っていました。

 しかし,霧が晴れた先には、本当に平和な世界が待っているのか――?
ウィスタンは竜を倒し、霧を晴らそうとしますが、それは同時に過去の殺戮や憎悪を呼び覚ます行為でもあります。老夫婦は愛を確認し合いながらも、自分たちが過去に何をしてきたのか、息子が本当に彼らを待っているのか、不安に苛まれます。

物語の終盤、竜は討たれ、霧が消えていきます。人々の記憶は戻り、過去の戦いも、個人の罪も、愛の裏側に潜む痛みもよみがえります。
アクセルとベアトリスも、自らの過去と正面から向き合わざるを得なくなるのです。


③ 登場人物

  • アクセル
    老いた主人公の一人。温厚で,常にベアトリスを気遣う夫。記憶を失いながらも,妻への愛情を支えに旅を続ける。過去の行いが物語の終盤に重い影を落とします。
  • ベアトリス
    アクセルの妻。体調が優れず,旅の途中でもしばしば休む必要がある。息子の存在を切実に信じており,再会を心の支えとしている。夫婦の絆を象徴する人物。
  • ウィスタン
    サクソン人の若き戦士。勇敢でまっすぐな性格をもつが,戦争の記憶を背負い、竜を討つことで民族の未来を切り開こうとする。
  • エドウィン
    ウィスタンと行動を共にする少年。母を失い,心に傷を抱えている。物語を通じて。記憶と成長が重要なモチーフとなる。
  • ガウェイン卿
    円卓の騎士の一人。アーサー王に仕えていた老騎士。竜を守るという使命を抱えており,過去の理想と現実の間で揺れる存在。
  • クエリグ
    霧を吐き出す存在。単なる怪物ではなく,人間社会の憎しみを抑え込む役割を担っており、その生死が人々の未来を左右する。
比企
比企

ぱっと見聖人君子のような印象を受ける人物もいますが,それぞれ苦悩や葛藤を抱えているからこそ,動向や思惑を読みながら読み進める楽しさが味わえます!


④ 物語の世界観

 『忘れられた巨人』はファンタジーの形を取りながらも,従来の冒険譚とは一線を画しています。

 舞台はアーサー王伝説の余韻が残る中世ブリテン。そこには妖精や鬼,ドラゴンといった幻想的存在が登場しますが,戦いの爽快さではなく「記憶」と「忘却」をめぐる静謐な物語が広がります。石造りの村や霧に包まれた荒野,朽ち果てた砦などの描写は,中世的な雰囲気を濃厚に漂わせ、読者を深い時間の流れの中へ誘います。


⑤ タイトルの意味とは

 「忘れられた巨人」とは、物語中に具体的な巨人が現れるわけではありません。巨人とは,埋もれた記憶そのものの比喩です。人間や民族が忘れてしまった過去の罪や悲劇,あるいは隠された真実は、地中に眠る巨人のように、いつか再び目を覚ますかもしれない存在として描かれます。

 
 イシグロは,歴史の忘却を「巨人」として象徴し,それを掘り起こすことの恐ろしさと必要性を問いかけています。

比企
比企

イシグロが敢えて巨人と表現したのは,ファンタジーな世界観に合わせるためなのと,歴史そのものの存在の影響の大きさを伝えたかったのかもしれないですね!


⑤ 複数の視点からの考察

  1. 集合的記憶と歴史の忘却
    忘却の霧は,民族間の争いを一時的に鎮める役割を果たしていました。しかし霧が晴れれば,憎しみは再燃します。これは,歴史を忘れることが戦争を繰り返す温床になるという鋭い寓話でもあります。果たして,記憶を取り戻すことが人類にとって幸福なのかどうか,それは記憶が戻らないとわかるはずもありません・・・・・。
  2. 老夫婦の旅と愛の形
    アクセルとベアトリスは旅を通じて,お互いへの愛情を確認しつつも,過去の行いを直視せざるを得ません。愛は記憶とともに存在し,忘却によって支えられることもあれば,記憶によって崩れてしまうこともある――その矛盾が物語を深くしています。しかし,それでも夫婦であるならば,それを乗り越えて人生という旅を続けていかなくてはならない。残酷ではありますが,それこそ現代を生きる我々人間と変わらない人生を送っているのかもしれませんね。
  3. 「忘れること」と「思い出すこと」への問いかけ
    忘れていた方が幸せなことを,果たして人間は思い出すべきなのか。それとも、真実と向き合うことこそが人間の尊厳なのか。作品は明確な答えを示さず,読者自身に問いかけます。

⑥ まとめ

 『忘れられた巨人』は,ファンタジー小説でありながら,単なる冒険譚や英雄譚ではありません。日本人にはやや馴染みの薄い中世ヨーロッパの文化や雰囲気を味わいながら。「記憶」と「忘却」が人間にとってどのような意味を持つのかを静かに問いかける物語です。


 たとえ記憶を失っていても,人は愛する人と共に歩み続けることができる。その姿を描きながら,歴史や個人の過去を忘れることの危うさを鋭く照らし出しています。 

本を閉じたあと、あなた自身も「思い出すべき記憶」と「忘れていた方が良い記憶」について考えずにはいられなくなるでしょう。

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