【本紹介】『頬に悲しみを刻め』ーS,A,コビー 多様性を謳う現代社会に一石を投じるサスペンス!【小説】

小説

 今回ご紹介するのは、全米で大きな話題となり、日本でも注目を集めているサスペンス小説 『頬に哀しみを刻め』(原題:Razorblade Tears)です。著者はアメリカ・ヴァージニア州出身の作家 S.A.コスビー。近年「ハードボイルド復権の旗手」とも呼ばれ、リアルで迫力のある筆致と、社会問題を鋭く描き出す作品で一躍脚光を浴びています。

 日本語版はハーパーコリンズ・ジャパンから2023年に刊行され、翻訳はミステリー翻訳でも定評のある 加賀山卓朗さん が担当。刊行と同時に読者・評論家から高い評価を受け、なんと『このミステリーがすごい!2024年版』海外編の第1位に選ばれた注目作なんです。

 父と息子、差別と暴力、そして赦しと贖罪。重いテーマを真正面から描きながらも、サスペンスの緊張感とエンタメ性を兼ね備えていて、「読み始めたら止まらない」と多くの読者を虜にしています。


①あらすじ

 物語の舞台はアメリカ南部、ヴァージニア州リッチモンド。 ある日、警察から連絡を受けた二人の父親、アイク・ランドルフバディ・リー・ジェンキンス。彼らの息子、アイザイア(黒人)とデレク(白人)は同性婚のパートナーであったが、顔を撃ち抜かれて惨殺されていた。 警察の捜査が一向に進展しない中、息子たちの墓が差別主義者によって破壊され、暴言で汚されるという侮蔑的な行為も起こる。

 バディ・リーはアイクに共闘を持ちかけるが、アイクは最初これを拒む。かつて犯罪組織“ライオット”の一員として生き、刑務所暮らしをした過去を持つ彼は、暴力の連鎖を恐れていたからだ。 しかし、息子たちの墓荒らしが腹立たしくも屈辱的であったこと、警察の無関心、そして父親としての後悔や怒りが彼を突き動かす。アイクはバディ・リーとともに捜査を開始し、真相に迫るにつれて、暴力、贖罪、そして血のつながりというテーマが絡み合う中で物語は激しさを増していく。

 中盤以降、過去の因縁、偏見、嘘、裏切りなどが次々と露わになってゆき、犯人捜しは単なるミステリーという枠を超え、登場人物の内面と葛藤を映す鏡となる。

 最後のクライマックスは、暴力と赦し、贖罪と憎しみが交錯する緊迫した場面となり、読後には心に重い余韻を残す。 現代社会の多様性や差別の問題は解決されていないからだ。

人種、トランスジェンダー、障害などの差別によって苦しめられている人々は現代もいますが、その様子を残酷に描いていて、読み進めるたびに心が締め付けられていきました・・・。


② 登場人物

以下、主な登場人物を中心に、背景と性格も含めて紹介します。

○アイク・ランドルフ (黒人):元犯罪者(“ライオット”所属)、刑務所経験者。出所後は庭園管理会社を営み、まっとうな人生を歩もうと努力している。息子アイザイアの死を知り、葛藤・後悔を抱えながらも復讐と真実探求を始める。

○バディ・リー・ジェンキンス (白人):アルコール依存傾向もある無職。息子デレクの父親。過去には暴力に手を染めた経験があり、男らしさや偏見を内に抱えている。息子を受け入れられなかった過去を悔いながらも、アイクとのコンビで捜査を進める。

○アイザイア:アイクの息子。ジャーナリストとして、権力者への告発を行っていたという設定も暗に示される。デレクとの同性関係を持つ。彼の死が物語を動かす中心的な動機となる。

○デレク:バディ・リーの息子。アイザイアとパートナー関係にあった。同性婚していた。彼らの関係性・生き方が、父親たちの葛藤・変化を浮かび上がらせる。

○アリアンナ:アイザイアとデレクの間に生まれた娘。両親が亡くなったあと、父親たちにとって希望と痛みを同時に負わせる存在として描かれる。

  • アイクとバディ・リーの両者は、息子を受け入れられなかった罪悪感と偏見を抱えつつ、その偏見ゆえに息子を傷つけた自責を負っている。
  • バディ・リーにはアルコール問題や暴力性があり、それが行動・判断を歪める要因となる。
  • アイザイアは正義感・行動力を持ち、社会の不正を告発しようとする姿勢が描かれる。これが結果的に命を奪われるリスクと直結してしまう。
  • デレクは、アイザイアとの関係と自身の存在を通じて、愛と理解の狭間で揺れる存在として描かれる。
  • アリアンナは両親を失った後の継承者として、未来の希望と痛みの象徴。両親の罪・後悔・覚悟を背負う存在でもある。

 物語は、「憎しみ」や「暴力」だけで語るのではなく、愛情、後悔、赦し、贖罪といった感情を深く抉る構造になっており、登場人物たちはその狭間で揺れ動く人間性を見せます。


③考察

 この作品を通して浮かび上がるのは、現代社会に根深く存在する「差別」「偏見」「無理解」の構図と、それが個人の生と死、家族関係、罪と贖罪、暴力へとどのようにつながるか、という問いです。

● 人種差別とその影

 アイクが黒人であるという設定は単なる設定の一つではなく、物語全体の根幹を貫くテーマです。アイクは黒人として、過去の犯罪歴や差別を経験しており、社会の目を強く意識せざるを得ない状況の中を生きています。白人優位社会、制度的な偏見、警察の対応の違いなど、彼が受けてきたであろう差別・抑圧は、彼の行動や葛藤に深く影を落としています。

 また、白人であるバディ・リー自身の発言や行動にも無意識の偏見や差別意識がにじむ場面があり、二人の対比を通じて「人種によって異なる社会からの重み」と「無自覚な差別」が浮き彫りになります。

 物語中、墓荒らしや侮蔑的言葉を刻む行為、それに対する軽視・黙認は、差別主義者たちの暴力性と無知を象徴しています。こうした行為は“目に見える暴力”であり、被害者の人権や尊厳を辱めるものですが、それが罰せられない社会構造の問題も暗に示されます。

● LGBT(同性愛・同性婚・無理解)と差別の構図

 アイザイアとデレクは同性婚という関係をもち、それが彼らの死の原因と深く関わっています。ただし、本書は単に「LGBT差別を告発する」物語ではありません。父親たちが息子たちを受け入れられなかった過去、自らに課した偏見暴力性後悔という複雑な重みを描くことで、“差別された側”(息子)“差別する側”(父親)の双方の傷と可能性を映す試みをしています。

 作中には、息子たちの“普通らしさ”を否定したり、親として「普通になってほしい」と願ったりする言葉が出てきます。たとえば、「普通とは何か」をめぐる葛藤が語られ、差別的言説の根底にある「普通/異常」「常識」「価値観」といった観念が問い直されます。

 また、無理解ゆえに息子たちを傷つけ、拒絶してきた父親が、息子を亡くして初めて真実と向き合おうとする姿は、“差別していた”ことを責めるだけでなく、その変化と覚悟を問う物語でもあります。

● 暴力・復讐・正義の問題

 本作は非常に暴力的な描写を含み、「復讐」を手段とした正義とは何かを問いかけます。アイクとバディ・リーは“法では裁けないなら、自分たちの手で裁こう”という選択肢を取りますが、それは暴力の連鎖を招くリスクを孕んでいます。  

 正しさや正義は絶対的なものではなく、利害・権力・感情・価値観によって歪められうる、という編集部解説の指摘もあります。 「復讐」「憎しみ」、そして「赦し」は紙一重であり、復讐を正義として振る舞う者自身も傷つくという構図が随所に示されます。

 差別や偏見の「見えない暴力」が、目に見える暴力と結びついたとき、人間の尊厳はいかに扱われるのか。本作はその残酷な現実を、読者に問いかけます。

多様性社会によって差別される人々がいる中で,差別してしまう人々の苦悩も描いています。無論,差別自体よくないのですが,それをあえて表現することで現代社会が抱える多くの問題にリアリティをもたせているのですね!


④ まとめ

 『頬に哀しみを刻め』は、ハードボイルドな犯罪小説でありながら、深い人間ドラマと社会の構造的問題を織り交ぜた作品です。
息子を失った父親たちの怒り、後悔、赦しへの希求が、暴力と復讐という物語の流れと相まって切実に描かれています。

 この本を読むことで、私たちは「差別・偏見が生む暴力のつながり」と、「その暴力から自由になる可能性」、そして「変わることへの痛みと希望」を見つめ直すきっかけを得ることができるでしょう。

 もしこの作品に興味を持たれたなら、ぜひ手に取ってみてください。感情を揺さぶられ、問いを残される読書体験になることを、私は強くおすすめします。

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