多くのエッセイを読んでいくと,当然の如く著者が人生経験から得た学びを文字に興し,読み物として世間に公表するものだ。その人生経験とは大なり小なり,何かを成し遂げたり失敗したり,どんな経験であれ人生の教訓なるものを説いてくれる。
エッセイを書き上げる人間は,小説家,芸能人,お笑い芸人,企業の社長などなどだが,どの肩書きにも共通していることは何かを成し遂げて,人生の経験が豊富ということだ。きっと1冊のノートには収まり切らないくらいの経験を心に刻んでいるはずだろう。
では,エッセイが書けないような人間は果たして凡庸で矮小な存在なのだろうか? 否,そんなことはない。人は皆,それぞれ違った人生を歩み,人や物事に受けた影響も多種多様だ。唯一共通することがあるとすれば,全員が地球という同じステージに生まれたことだ。
経験の多くがものを言うわけなではない。個人が経験したことを多くの語彙を用いて独特な表現をするかでその質が問われるだろう。例えば,北海道に旅行に行ったとしよう。北海道では羊ヶ丘展望台でクラーク像を見て、街中で行列を作るお店でジンギスカンを食べたとしよう。したことだけに注目すればただの観光としか映らないが,これをエッセイとして書き起こそうとしたらどうだろう。それぞれの場所で経験したことを反芻し,その旅行の素晴らしさを多くの言葉を使って表現するのではないだろうか。
脳内の単語帳にはどれだけの言葉が記録されているだろうか。義務教育を終えた後にどれだけの単語と文章表現をインプットしてきただろうか。経験だけで知識が増えるわけではない。経験と共に学びを与えていかなくては、心も頭も更新されていかない。誰かに強制されたものではなく、自らが進んで知識を蓄積した時こそ、真の知恵が生まれる。
人生経験の大きい・小さいはあるかもしれないが,そこに勝ち負けは存在しない。自分を誰かを比べることに意味はない。自分の信じる道を歩み続けていく,それことが人生においての最適解なのだ。


