【続けることの意味】誰かにみられなくてもいい。自分がその存在を認識していれば【エッセイ】

エッセイ

 私は歌が好きです。小学生の頃は,下校中は友達がいても一人であってもずっと大声で歌っていて,地域の人から軽い噂になっていた(らしい)ほど,昔から音楽を愛しています。しかし,歳を重ねるごとに自身の歌唱力の未熟さを恥ずかしく思い,自信をもてなくなっていました。

 しかし,それでも音楽が好きです。誰が自分の歌声を貶そうと,歌唱力の不完全さを感じていようと,それが音楽をやめる理由になることはないでしょう。

 だからこそ,Youtubeに自分の歌声をアップロードするようになりました。

 多くの人に見てもらいたい,という気持ちはもちろんあります。人はその気持ちの大小関わらず承認欲求をもっています。不特定多数とつながることができるインターネットが普及したからこそ,SNSが世に広まり,自身の生活やエモい写真を発信するようになりました。

 ただ悲しいかな,自分の作り上げたものは,よほど洗練され評価の高いものでなければ恥ずかしいと感じてしまいます。それは自信のなさや嘲笑の対象にされないかという不安からくるものです。これらの文章だってそうです。身内や友人に知られたら目も合わせられないほど赤面を抑えられないでしょう。

 何より,誰にも見られないことが一番の傷になるでしょう。誰からも認められず,そもそも存在しているのかも理解されない状態なのですから。

 だからこそ大切なのは,自分自身が自分の作品の存在を忘れないこと

 誰にも見られないと書きましたが,正確には違います。それを作った自分自身が一番の理解者であり,誰よりも愛してあげられる存在なのです。

 その作品を認め続けることは,新しい作品を生み出す原動力にもなり,続けることは粗さも削られていき,より洗練されたものに仕上がっていくことでしょう。

 存在を認めること,好きなことを続けていくことは,愛することと同義なのです。

 これを見たあなたにそれが伝わってもらえたら,私も存在した甲斐があったというものでしょう。

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