【言葉・文化】カタカナで表現するよりも、日本語で表現する言葉の強さ【エッセイ】

 「プライドが高い」

 今までそのような人を見たことがあるだろう。プライドが高いとは、自分の技術やステータスに自信があり、満ち溢れている状態のことを指す。他の人よりも技術が秀でていたり仕事で立派な役職についていたり、周りと自分を比較することで自信を見せつけてしまう。それも本当は、弱い自分を見せたくないがための虚勢に過ぎないのだが、自己顕示欲と承認欲求を抱えている人には少々難しい問題かもしれない。

 さて、そんなプライドの話は置いておき、ここでは言葉の表現の仕方に注目してみたい。

「プライドが高い」と聞くと、妙に鼻につく言い方に感じるし、そのような人は大抵性格も要領も悪い。プライドとは日本語で誇りを意味する。誇りとは「これは素晴らしい」胸を張れるもののことであり、自分自身の基準において誠実であるときにあらわされる言葉だ。誇りの言葉を使う場合は高いではなくもつ(持つ)である(ちなみに、実際に物体として手などに持てる状態のときにしか「持つ」という漢字は使わない)。

 「誇りをもっている」そう聞くとどうだろう。その人は素晴らしい想いをもっていたり、誠実さを兼ね備えている様子も見られないだろうか。対して「プライドが高い」と聞くと、自分に自信があるだけで、自信にするほどの技術と周りの評価は伴っていない、ただの虚飾となってしまう。意味は同じに見えても、カタカナから漢字などに変えるだけで人に与える印象は全く変わってくる。

 他の例を出すと、「ポリシーがある」と「芯が通っている」では、自分のルールを守るという点で共通しているが、より強いイメージはより太くて強い芯という言葉だと感じる。「ドライな性格」と「淡白な気質」だと、乾いて冷たい印象の強いドライよりも、さっぱりと少し落ち着いた印象のある淡白の方が上品さも伺えるだろう。

 ではなぜカタカナよりも漢字の方が良い印象を与えるのか。それは、日本語の表現の豊かさと丁寧さにある。日本語の言葉の数は膨大だ。英語で自分のことは「I(アイ)」としか表現しないが、日本語では、「わたし」「僕」「わたくし」「俺」「我」「我輩」「わし」「〇〇(自分の名前)」と少し例に出すだけでこれだけ出てくる。それは自分の年齢や性別、立場によって変わってくるから使い分けをしている。日本語にはそれぞれ具体的で繊細に意味わけがされているからこそ、カタカナ以上に言葉の強さを感じるのだ。

 無論、カタカナも立派な日本語だが、古来から使われている日本語の理解を上げることで、誰が見ても立派な人間に仕上がっていくのではないだろうか。

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